毎日下痢!

毎日下痢したくねぇ〜

日記:その⑪

一応日記のつもりで開始したブログのはずだが、私はカスカスで中身のない日々を過ごすことに抵抗がなさすぎる半ニートなので、頭の中でしか起きていないこともガンガン書いていかないとネタ切れになるぜ!というわけで今日は好きな作品の布教です。

 

親に愛されていない、または周囲の大人から適切なケアが与えられなかった子供というのは見ていてどうしようもなく痛ましい一方、物語の登場人物としてはとても魅力的に映る。辻斬りナギリや尾形百之助などはその好例だろう。最近直球でそういう主人公が出てくる本を読んだので記録しておく。

f:id:barbads:20220203015017j:image

パトリック・マッケイブ『ブッチャー・ボーイ』(訳:矢口誠)だ。これがもう本当に面白かった。ざっくりあらすじを説明すると、60年代のアイルランドでアル中の父親と精神が不安定な母親と共に暮らす少年・フランシーが、最近イギリスから越してきた同級生の母親に「ブタ」と罵られたことをきっかけにして次第に暴走していき、彼の短い人生を構成していたもの全てをメチャクチャにして(されて)しまう話、といえる。

ストーリーを文字にするとなんだかあっさりした感じかもしれないが、これが主人公フランシーのたたみかけるような一人語り(意識の流れというやつ)で展開していくので、詳しくはマジで読んで感じてくれ!としか言えない。

帯で姫野カオルコもそんなことを言っているが、この物語の最大の魅力は「痛さ」にある。まだ幼い子供がイギリスとアイルランドの間にある権力構造や貧困、職業差別に家庭内暴力に性暴力やら周囲のあらゆるものからズタズタにされていき、その中でしがみつこうとした対象に次から次へと裏切られていく過程を一人称で見せられるのはけっこう精神に来るものがある。全編通していいシーンしかないが特に物語後半、フランシーがもうほとんどダメになりながら自分の出生には幸せなものがあったはずだと信じようと両親のハネムーン先を訪れる流れの痛ましさは群を抜いていると思う。

あとこの作品、主人公が主体になる性愛の描写がほとんどなかった(ロマンティックな感情に絞ればフランシーから親友のジョーに向かう執着が一番近いか……?というレベル)のが個人的にはよかった。途中に出てくる小児性愛の聖職者から自慰についてしつこく聞かれた時も、フランシーは会話の上だけでなく語りの上でも応答を避けているように見える。そんなフランシーの語りで一番主体的な性のニュアンスが強まるのは、例のイギリス帰りのニュージェント一家の母子を「ブタの学校」の教師として指導し、立派なブタの証としてみんなの前でうんちをさせる、という妄想に浸るシーンだと思うのだが、この箇所を読んだとき、まだPVセックスの存在を知らず他人がする排泄(大)に漠然としたエロスを感じていた幼少時の感覚が蘇るようで大変になった。今思えばそのままでよかったのかもしれん。今はペニスとヴァギナで行われる性行為がエロいものだと完全に刷り込まれているけれど、私にとってのエロスの根源はやっぱり肛門なんだよな……

 

そんなこんなでとにかく大満足の本作だが、実は私と『ブッチャー・ボーイ』の間には二年にも渡る因縁が存在している。

2020年の春学期、私は「アイルランドへの誘い」という講義を受講していた。ご自身でもアイルランド文学の翻訳をされている栩木伸明(とちぎのぶあき)先生が開講している授業である。内容はアイルランドにまつわる文学作品や映画を見て小レポート(エッセイ)をちょこちょこ出すというもので、自分の意思では絶対見ないタイプの作品に触れられてかなり楽しかったのだが、その教科書として指定されていた先生の著書『アイルランド紀行』で、『ブッチャー・ボーイ』が紹介されていたのである。

あらすじとワンシーンの翻訳で私はすっかり読みたくて仕方なくなってしまったのだが、その文の中では全体の邦訳の予定については一ミリも書いてなかった。

え〜〜〜〜〜!!!!!!!!そんな先っぽだけ読ませておいてあとはお預けとは殺生な!!!!翻訳できる才能をお持ちなのだから全部翻訳してくださいよ〜〜!!!!!(傲慢学生)

になり、原作が読めないならば映画版(ニール・ジョーダン監督、1998)を……と思ったものの、映画版は映画版で当時日本で起きた事件を受けて劇場公開が中止になり、2020年時点ではVHSしか視聴する方法が存在していなかったのだ。のでヤフオクで落とした。

が、VHS機器持ってないからDVDに焼き増ししてもらえばいいんだよな!という安易な考えでコイデカメラに持っていったら「ダビングになっちゃうので著作権の関係で無理ですね……」と至極当然に断られてすごすごと帰ることになり、結局手元にブツはあるのにそれにアクセスする方法がない、という状態のまま二年間『ブッチャー・ボーイ』を放置するハメになったのである。私もコイデカメラの人もまとめてお縄になるところだった。その節は本当にすみません。

 

転機が訪れたのはつい先週。いつも通りジュンク堂の翻訳小説コーナーを徘徊していた自分の目の前の書棚に、なんか完全な邦訳が鎮座していたのを見つけたのだった。マジでいつの間に〜〜〜〜〜!?私のリサーチ能力が低すぎるだけか!?(栩木先生は翻訳ではなく解説担当)

この流れならまさか、と思って調べてみたらそのまさか、いつの間にやら映画版もぬるっとU-NEXTで見放題になっていた。U-NEXTは本当に優秀なサブスクリプションサービスです。(回し者?)

邦訳のめどが立って映画も配信になったのか、映画の配信が解禁されたから邦訳も動き出したのかは分からないが、とにかくそういうわけで私は実に二年越しでようやく『ブッチャー・ボーイ』に触れることができたのである。しかもこの二年間で上がるだけ上がった期待値を小説・映画版共に思いっきり超えてくれたので本当に言うことがない。

映画版は原作のストーリーをなぞりつつ、原作で書かれた要素をうまくクライマックスが盛り上がるように再構成していたのが特によかった。音楽も映像も最高だし流石の実力という感じだ。インタヴューウィズヴァンパイア見たことないけど……小説も映画も、関わってくれた全ての人にマジで感謝〜〜!!

 

物語の中で、フランシーは結局他人に直接的な暴力(殺人)を振るうことになるわけだが、ちゃんと読めば「周囲の環境に追い詰められた結果暴力を発露させる」という流れは同じでも、フランシーはいわゆる快楽殺人者や「無敵の人」とは違う、ということは伝わるようになっている。でも最初の日本での劇場公開が中止になったおかげでできる限り原書の文章に近い形での邦訳ができたということなので、ここは結果オーライということにしておこう。とにかくみなさん『ブッチャー・ボーイ』を読んでください。国書刊行会のリンクを貼ります。

https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336072962/

ちなみに、結局まだ見られていないVHSは自室の勉強机の本棚で、パッケージがどぎつくないから表に出しても大丈夫だろうと判断されたエロゲの箱の隣に鎮座している。

f:id:barbads:20220203013104j:image

 

おばあちゃん、あなたの孫は春から無職な上に学習机の使い方がカスです。

おやすみなさい。